ただに染汚をさける [宗教]
純粋にいたること、純粋にいたらないことは、河上徹太郎氏にとって、選択の問題ではなかったのかも知れません。
けれども、ただに染汚をさけた、さけることとした、となれば、これは意図の問題となります。
ユダは、まことの近代人であった、という解釈が、我が意を得たるものであったのでしょうか。それは、不明です。というのは、ひとは、ユダにもなり得ないかもしれないからです。
すると、氏は、聖書のなかの人物について、自分には不要の事柄を解説してみせたのかもしれないことになります。
宗教、宗教意識にすがらない、依存しない、それは、氏の祖父の徹太郎の行状であったのでしょう。祖父の方は今北洪川和尚に学び、在俗の人物として、過ごしました。
わたしたちは、洪川和尚から宗演和尚への法の伝衣を観ますが、在俗の者にも、伝えられたものがあったのでしょうか。あとは、知りません。
中村吉藏著『正法眼藏 ― 道元禅師の人格と宗教』 [宗教]
イプセンその他の引用を得て、著者は自在に道元禅師の伝記を語ります。
力量は、和辻博士と同等でしょう。新しい知見は何もなかったです。しかし、禅師の仕事を「体当り」と称した平易な表現は、劇作家として見事でした。ときどきこういった面白い書物にいきあたります。
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この世にも、信仰世界にも居場所がない場合 [宗教]
理想と現實との対立ではありません。
未解明の自身が、未解明の領域を多く残す外界に相対して、消化不良を起こします。
生のある瞬間より死ぬまで、事態は不変です。
シェストフの不安、カミュの不条理、キリストにもユダにもなれぬ中途半端 [宗教]
青野季吉氏が、正宗白鳥氏の心情を察して、「キリストにもユダにもなれぬ」中途半端の「詰まらなさ」を挙げています。
河上氏自身は、シェストフの不安はカミュの不条理と同等であると考えます。
一切の背景には、科学的近代精神が、現実を把握しようとして、そこからはみ出すものがあり続けるという事実があります。
修行者ならば、到達点から、さらに別處へと移行します。移行するのが当たりまえです。対するに修行とかかわりのないような人間は、「詰まらなさ」に定住することになります。
これは、大変なことで、選択の問題であることも、修行と縁がない者には、選択肢の存在が知られないのです。
選択肢がないのは、痛いですね。
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