ただに染汚をさける [宗教]
純粋にいたること、純粋にいたらないことは、河上徹太郎氏にとって、選択の問題ではなかったのかも知れません。
けれども、ただに染汚をさけた、さけることとした、となれば、これは意図の問題となります。
ユダは、まことの近代人であった、という解釈が、我が意を得たるものであったのでしょうか。それは、不明です。というのは、ひとは、ユダにもなり得ないかもしれないからです。
すると、氏は、聖書のなかの人物について、自分には不要の事柄を解説してみせたのかもしれないことになります。
宗教、宗教意識にすがらない、依存しない、それは、氏の祖父の徹太郎の行状であったのでしょう。祖父の方は今北洪川和尚に学び、在俗の人物として、過ごしました。
わたしたちは、洪川和尚から宗演和尚への法の伝衣を観ますが、在俗の者にも、伝えられたものがあったのでしょうか。あとは、知りません。