シェストフの不安、カミュの不条理、キリストにもユダにもなれぬ中途半端 [宗教]

青野季吉氏が、正宗白鳥氏の心情を察して、「キリストにもユダにもなれぬ」中途半端の「詰まらなさ」を挙げています。


河上氏自身は、シェストフの不安はカミュの不条理と同等であると考えます。


一切の背景には、科学的近代精神が、現実を把握しようとして、そこからはみ出すものがあり続けるという事実があります。


修行者ならば、到達点から、さらに別處へと移行します。移行するのが当たりまえです。対するに修行とかかわりのないような人間は、「詰まらなさ」に定住することになります。


これは、大変なことで、選択の問題であることも、修行と縁がない者には、選択肢の存在が知られないのです。


選択肢がないのは、痛いですね。


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